血の通ったチームをつくりたいみなさま・コラムを読んでくれている求職者のみなさまへ。
こんにちは、戦略人事・広報の坂牧です。
先月29歳の誕生日を迎えましたが、上司のちなさんに粋なお香立てをプレゼントしてもらいました。夜はもっぱらお香を焚いて、坐禅なんかしちゃってる今日この頃です。
さて、今回のテーマは「釈迦の教えから考えるチーム論」。年末年始も近いことだし、己を振り返るきっかけにもなれたらいいなと思いつつ、論じてみようと思います。
ある日の私の脳内テーマは、「我が身を未熟とするVS圧倒的自信」。
自分を未熟だと反省することはいいことだが、やりすぎると自信を失う。
圧倒的自信があるのもいいことだが、いきすぎると傲慢になる。
このバランスってどんな状態が最適なんだろうか?
そんなことを、夜な夜なふと考え始めたのがコトの発端でした。
解を見出すきっかけを与えてくれたのは、誠吾さんからの資料共有。
「見てみて、まこちゃん。」と共有してくれたスライド資料には「釈迦の言葉:知非便捨(ちひべんしゃ)」の文字が。元々仏教にアンテナが立ってた私には、この言葉が強烈に焼きつきました。
「知非便捨」。江戸時代に書かれた書物・武士のバイブル「葉隠」の中で、人が大切にすべき考え方を説くために語られた言葉です。下記、そのエピソードを紹介します。
───ある日、佐賀県宗龍寺の和尚のもとに、博識な知識人たちが訪れた。
知識人たちは学問話に花を咲かせ、「先人の教えをよく学び理解している自分たちは”道”を知っている」と言わんばかりに知識をひけらかしていた。しばらく黙って話を聞いていた和尚だったが、やがて「博識なのは結構ですが、”道”という面では凡人に劣っておりますよ」と一言。
「そもそも道とは、己の非すなわち至らなさを知る事である。常に自分が未熟だと知り、精進し続ける生き方を”道”という。聖という字をヒジリと読むのは、非を知っているということです。」
「お釈迦さまは自らの非を知りいかにそれを捨てるか(=知非便捨)を心がけてこそ、己の道を成就できると説かれた。自分の心を見れば、一日の間にどれほどの悪心が起こっていることか。そこに気づかず、自分は大丈夫などと思うなど、思い上がりも甚だしい!」
和尚にそう諭された彼らは、驕り他人を見下していた自分たちを恥じ、和尚を崇敬したと言います。
ヒジリって、そこから来てたんですね。
このエピソードには、続きがありました。
「然れども武篇は別筋なり。大高慢にて、吾は日本無双の勇士と思はねば、武勇をあらはすことはなりがたし。武勇をあらはす気の位これあるなり。」
葉隠の教えによるならば、武士は大高慢の心を持たなければならない。
つまり何かを志し行動するものたちは、絶対の自信と信念を持て、というわけです。
己の非を知ることは重要だけれども、それだけでは行動することにはならない。
行動するには、何らかの信念が必要であり、その信念を持つには、高慢の心が必要。
「傲慢」と「高慢」は違います。思い上がりが態度に出て、自分本位に行動するさまを「傲慢」とするのであれば、「高慢」は思い上がりはありつつも態度には出さないさまを表します。
自分ならやれるという高慢心を態度に出さず胸に秘めながら、己の未熟さをまっすぐ見つめ行動し続ける。なんてカッコいいんでしょう、痺れます。
非を認め、非を捨てて、信念を持って行動するという一連のプロセスは、個人の生き方に限らず企業組織にも当てはまります。企業も生き物。自社にとって捨てるべきアクは果たして何か?うまくいっているように見えて、心の宿っていないバグはないか?そうさせてしまっているのは自分ではないか?未熟な面に向き合い、行動をし続けることでチームに変革が生まれる。いつの時代も変わらない原理原則なのだと思います。
インビジョンでは、「梁山泊」というキーワードがあります。梁山泊とは、中国の小説「水滸伝(すいこでん)」に出てくる、豪傑や野心家が集まる場所のこと。これにちなんで、一緒に日本を変革していく仲間のことを「梁山泊」と呼んでいます。あまりにも猛々しい感じだとチョット暑苦しいので、実際のところはもうちょっとナチュラルな感じです。
なんのために会社が存在しているのか?その存在意義が、イコール会社の志でありミッションとするならば、その志に本気で向かっていく会社が増えれば、日本はもっと強くなる。信念を心に秘めながら、己の未熟さを見つめ行動し続ける人たちが増えれば、会社はカッコいいチームになる。
志に向かって一枚岩で邁進していくチーム・信念を持って行動する自分で在ろうと心新たに、私もこの年末年始、内省してみようと思います。
皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。
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