とある日、インビジョンのオフィスにお手紙が届きました。
詳細の部分はぼかしを入れさせていただくが、端的にいうと、インビジョンのプロダクトであるHRハッカーを使っていただいたお客様からの所感と感謝が記された手紙だ。
嗚呼、なんと嬉しいことやら。
また、別の日にはこんなお手紙が。
現在、産休に入ってる貞光智菜のお父様から、産休への配慮とメンバー全員からのメッセージ動画に対する感謝の手紙である。
ふと、なぜ手紙一枚でこんなにも温かい気持ちになったのかを考えてみた。
例えば、この文章を電子メールで作ろうと思えば、打ち込む時間だけを測れば、ものの2〜3分もあれば、完成だ。
一方で、手紙に記すとなると、訳が違ってくる。
書き始めから完成まで、少なくとも数分以上はかかるだろう。電子メールと違ってデリートボタンは使えない。一文字でも間違えれば、一からやり直し。問答無用の一発勝負だ。
要するに、電子メールと手紙の違いは完成までに掛かった時間である。
電子メールでは、誰が打っても同じ文字の大きさ、同じ形になる。片や手書きの手紙は、筆跡という覆せないオリジナリティが生まれる。
その人の想いというか念をより強く感じやすいのが、手書きの手紙であると個人的には思う。
好きな人への告白もLINEとラブレターでは、伝わる想いに差が出るのと同じように、アナログ的な手法のほうが相手の心を強く揺さぶるものではないだろうか。
おいおい、何を当たり前のことを言ってんだと思われるかもしれないが、まさにこれなのである。
デジタルだと薄情だとか、アナログであれば文句なしで良いと言ってるわけではない。それぞれに特徴と良さがあるわけで、使い分けが大事なのだ。
普段の業務でのやり取りを一々手書きで行っていたら、物事は前進しないし、Qに一度の表彰をチャットだけで済ませていたら、せっかくの表彰に箔がつかない。
デジタルは目的地まで早く到達できる、アナログは目的地までの過程を楽しめるというそれぞれの特徴があり、それぞれの過程でしか見れない景色も当然ある。
これは、私Kemiが箱根峠を自転車で登ってる時の写真だ。
何を思ったか、「千葉の実家から名古屋まで自転車で行ってみよう」と決意し、漕ぎ始めて一日目の午後3時くらいだったと記憶している。
当然だが、新幹線といういわばデジテル的な手法では見ることは不可能であり、自転車というアナログ的な手法だからこそ見られる景色なのだ。
何もアナログの良さや特徴だけを感じた旅ではない。3日掛かって、名古屋に到着し、東京行きの新幹線に乗った。
3時間ほどで東京駅に到着。新幹線という乗り物の便利さ、快適さをまざまざと感じ、「俺の行きの3日間は3時間で帰れるのか」と軽い絶望をも味わうことが出来た。
少し話を脱線させるが、その一年後、「名古屋から福岡まで自転車で行けないだろうか」と思い、自転車を持って新幹線で名古屋まで行き、名古屋から自転車を西に向かって漕ぎ出した。
結果的には3日目の広島で疲労困憊+脱水症状を引き起こし、バタンキュー。下関海峡を渡り、九州上陸することは無かったのである。。。
デジタル先行型のこんな時代だからこそ、インビジョンはアナログ的な施策を行っている。
一つはインビジョン通信。もう一つは新しく始まったお客様に感謝を伝える梁山泊ポストカードだ。
インビジョン通信とは、毎月のインビジョンのトピックスをまとめた新聞風月報。ステークホルダーの皆様に送付させていただいている。
インビジョン通信の詳細が書かれたコラムがあるので、そちらからぜひ確認していただきたい。
こちらは最近出来たばかりの梁山泊ポストカード。
そもそも、「梁山泊」とは「豪傑や野心家などが集まる場所のたとえ」のことを言う。
働くかっこいい大人を増やし、日本を盛り上げて変革させていく豪傑同士の証として絵に起こしてみちゃおうということで、絵に起こしてみちゃったわけだ。
端的に言えば、「私たちは同じ志を持った仲間ですよね。これからもよろしくお願いします」その証と言ったところであろうか。
勿論、この絵は一からインビジョン独自で作成したもので、メンバーであるこっしー作。(絵が描けるって羨ましい)
これらは「デジタルの時代にアナログの手法やっとけば、逆に目立つしイケてるっしょ!」という痛いイキりではない。インビジョンもメルマガなどデジタル的な手法をもちろん取り入れている。
ただ、届けたい感情やアウトプットするモノによっては、「アナログのほうが伝わるかも」と思い、これらの施策を行っている次第というわけだ。
「感謝するだけで人生が好転したら苦労しないよ」
そう思ってしまうのも無理ないはずだが、あえて、「そんなことないかもよ?」と言いたい。言わせてほしいのである。
心理学者のロバート・エモンズと、マイケル・マッカローが行った有名な実験がある。
内容としては、実験の対象者を2つのグループに分けて、一方にはちょっとしたことでもいいので感謝することを毎日5つ書かせる、もう一方には特に何も指示せずという実験だ。
実験結果はどうだったか。
「日々、感謝することを考えていたグループは、何もしなかったグループと比較して幸福感が高くなり、他人に対して優しくなり、よく眠れるようになった」という報告だった。
また、日々、感謝することを考えていたグループは、運動量も増加し、身体的不調も減少したという報告もあった。
感謝をするだけで、本当に人生は好転するのだ。
実験の詳細はこちらの論文から確認してみてほしい。(当然、全文英語だ)
もう、この通りなのだが、感謝を伝えること自体が重要なのはいうまでもない。黙っていて理解し合えるほど、人間は高度な生物ではない。
伝えられる手段がある、伝えれられる相手がいる。大変幸福なことである。もはや、これで感謝を伝えないほうがどうかしているとさえ思ってしまうほどだ。
ただ、伝えることだけで満足していては、自己完結。相手に感謝の意が伝わって、心に届くことではじめて成立するものではなかろうか。
とするならば、その相手はどんな伝え方をすると喜ぶのか、想いが伝わるのかを想像することが第一の選択になるはずだ。そのステップを踏めば、一律的且つ形式的な感謝の伝え方にはならず、その相手に一番伝わる手法を選択することができるはずだ。
かの孔子も『論語』において、「君子は敬せざること無し」と説いている。その意味は「立派な人は感謝の念を忘れることはない」と言うもの。
2500年前からの感謝に関する原理原則を忘れずに、国内の感謝の総量、言うなればGDT(Gross Domestic Thanks)国内総感謝を増やしていければいいのではないだろうか。
「感謝してますか?」
笑顔がキラリと光るミスターの声が聞こえてきたところで、このコラムを締めたいと思う。